【字の確認】
・しめやかに
・須田先生(金光須田先生、ご本部には三人の金光様がおられる)
・御広前立錐
・綾部さんの長女の方が国東のほうに縁について
・もうしろくにじゅうしのトンをつか
・きざんてい(大きなホテルの名前)
・換算(かんさん)
・万事万端の上に用意おそおそ怠りなく

昭和51年12月15日 前夜祭
                      末永静行



本当にこの前夜祭と言う意味が分からないのですね皆さん、説明をしません、もう本当に明日のお祭りを本当に有り難く頂くならば今夜の前夜祭には、から出てその前夜祭の雰囲気をそのまま明日のご大祭に持っていかなければ本当のご大祭を頂くということにはならんのですけれどね、遠隔地から今日も泊り込みでみえておられる方達と一部御用を頂いておる方達がこうやって今日の、それこそ、しめやかに本当に神様に対しても相済まん事だと思います。
今日、先日から、去年の学院を卒業した同期の方達が三日間でしたか、四日間、ご本部で信心の実習をなさいました、で昨日帰ってまいりましてから、竹内先生が学院在学中もちょいちょいお邪魔をしておったと言う、金光の町には金光様が三人おられる、一人は勿論教主金光様、一人は須田先生、一人は今申します金光太郎と言う大先生、三代金光様から名前まで性を頂く、金光と言う性を頂かれた、実は、それは朝鮮人であろうが日本人であろうが同じですけれども国籍の違った方なんです。学院のまかないです、炊事のほうの手伝いを長い間なさっておられた、なかなか神様に、言うならば、通う、神様にすかれる何物かを持っておいでに違いはない、たくさんの人が助かる。
先日からも、日月会と言う会、名称のもとに布教活動をなさっておられます、とにかく人が助かるんです、別にお話が上手というわけでもなからなければ、特別の学問があるというわけではないけれども、確かに人が助かる、十五周年の記念の大祭をご本部の旧御広前を借り切ってなさいました、勿論ご本部の先生方で奉仕なさいました、という事、写真がでておりましたが、もうそれこそ、あの御広前立錐の余地もないように参拝者が詰め掛けてのお祭りでした。
人は足すという事は大変なことです、その先生の御教えだと言うのが、今日、私、竹内君が頂いて帰っておりますあちらの新聞を見せて頂いとりましたその一番はじめのところに、その、太郎先生の御教えと言うのがでております、それには、もう実に素朴な表現ですけれども、その通りだと、まあ思うんです、信心を頂かなかったら一生の損といっておられます、信心を頂かなかったら一生の損、魂の世界に入ってもなおさら損だと言う意味の事を金光太郎先生の御教えとして掲げております。
本当に信心をしなかったら一生の損だと言えれる分かれるだけ素晴らしい信心を頂いておられるということです、果たしてこれはお道の信者だけでもどのぐらいたくさんな人が、まあ、現在五十万といわれておりますが、五十万の信者、信奉者がです、一生の損だと言うような神様を頂いておる信者が果たして幾人おるだろうかと、ただおかげを受けるという事はは大した得にはなりません、ね、一生の損とか得とかと言うほどしの信心、そう言う信心をさせて頂くという事が一生の得だと、あの世へ行ってはなおさらそれがハッキリするんだといえ、また、思えれれるような信心はどう言う信心であろうか。
今度は三日間でしたか、四日間でしたか、三日間、この最後の日に座談会がその教導に当たられた先生方中心にして座談会があった、その時に今度の研修で皆さん何か売ることがありましたか、何かおかげを頂きましたかと言う質問があったそうでございます、昨日、池田先生が参加しておりましたが、池田先生がこう言うふうに言ったそうです、もう大変相済まん事でございますけれども、何も売る物がございませんでしたちいうたそうです、ほんなこてそげんなんこつばあんたがいうけん合楽の評判が悪うなると私が昨日。ほりゃ例えば心にはそうであっても大変おかげを頂きましたとかどうかいえやよかつとに、本当に相済まんことでございますけれども三日間みっちり先生方のお話を頂きましたけれども、ね、売るうものはございませんでした、まあ、こちらで勉強をしたぐらいな事ならば合楽でもっと、もっと深く広く頂いておると言う意味でございましょう、ね。
それはどういうようなことかというと、これも竹内君が帰ってから申しておりましたが、ご本部でも合楽と段々よく似てきたとこういう、というのは神願御成就という事がいつも芯になると言うのです、ね、勿論天地書附を基軸にしてでございますけれども、その天地書附を基軸にして御神願に沿い奉らなければならない、そこで、なら神願に沿い奉るという事はどう言う事ですかと質問するとね、それが分かるごたるならあんた楽な事はなかたいち、どの偉い先生についても、いわば、手探りの信心だという事でございます。
これは先日から、大分の支部長の綾部さんとそれから福岡支部長の秋永先生が二人でこれは信者の研修を二日間でしたか受けてまいりました、そこでもやっぱり同じようなことだったそうですね、いよいよのところになるとそれは、それは分からない、そこでお互いが、ね、あーでもなかろうか、こうでもなかろうかと言う間違いのない信心を頂いて行かなければならない、果たしてこうやって頂いていっておるが、これは間違ってはいなか、間違っていないかすらも分からない、計算でも、例えば五と五とたせば十になる、それは果たして正確な答えかどうか、それを知るためには十から五を引いて見なければならない、反対の場合であったらたしてみなければならない、わったらかけてみる、かけたらわってみるとすると自分の計算が間違いがないという事が分かる、または間違っておったらそこに答えがはっきり間違いであると言う答えがでてくる、信心もそうです、私共が信心をさせていただいておればです、ね、はっきりと間違いなく答えがでてこなければならない、ね、勿論それはおかげをもって実証するのですけれども、自分の心の中に感ずるところの信心、心に感ずるところの有り難さ。
今朝の御理解に、ね、信心は年が寄るほど位がつくものじゃと仰るが、果たして位がついていっておるかどうか、自分の信心は間違いがない間違いがないと言うておっても位がついていきよらん、その証拠に一つもおまかないが変わって行きよらん、ね、位がつくなら給料もたこうなっていかにゃいかん、位がつくならば皆からの、いわば、大事にされる度合いも深う厚うなって行かなければいけないでしょう、それがはっきり分かる、有り難い、ね、はぁーこの有り難いがいよいよ信心の、言うならば、バロメータである、ね、そこのところをです、私はハッキリして行かなければいけない、それがはっきり分かる、ね、おかげが伴うておる、だから、おかげを、これを見てくださいと、ね。
これを見て下さいと言う実証がない、だから確信をもって、ね、神様のお心に叶う神願成就という事の信心が一歩、一歩進められておる、この信心を頂いて行けば間違いがないという事が分かるわけです。そう言う信心をもってして初めて金光太郎先生が言われるように、ね、信心を頂いておかなければ一生の損、信心を頂いていなかったら魂の世界に行っていよいよ持って損だという事がいえれると思います。ね。
ただおかげを受けたり、受けなかったり、自分の心には何年しておっても有り難いと言う信心も成長しない、それではねつまらない、そう言う意味でね、今、合楽でははっきりと、ね、そこんところを明示してある、明らかにしてある、この信心さえ進めて行けば必ずおかげが受けられるお徳が受けられる生神金光大神へ向かって一歩、一歩近づいて行くことが出来る、東京行きをするならばこの汽車に乗りなさい、この汽車に乗りさえすれば必ず東京に到着しますよと言わんばかりの教えをこの頃日にち頂いております、合楽の信心が完璧の域に入った、その完璧の域に入ったその信心をいよいよ完璧を目指してお互い、勿論これは限りないことでございますから、ね、未完成のまま永遠に終わることでございましょうけれども、ただ、間違いのない方向へ向かって進んで行く、これならば一年一年確かに有り難くもなりゃ、位もつくと言う信心を今合楽では皆さんにもう来る日も来る日もそのことを聞いて頂いておるわけであります、ね、それもいろいろとあらゆる角度から実証して、ね、神様があんたの心が見どおし、聞きどおしだと、なるほど神様が聞きどおしだなと分からせて頂けれるほどしの信心を実証しながら皆さんに見てもらい、聞いてもらいしながらこの信心を進めておる。
今日から明日へかけての、言うならば、報徳祭、ね、その間違いのない信心をここだと皆さんがどうでも一つ把握をさせてもろうて、報徳祭の、ね、いわば、恩恵を浴していかなければいけないと思います、ね、こんところもあらゆる角度から説いてありますから、だから、いくらといても説いてもです、分かったか分からんようにしておる人もありますけれども、ね、だから、自分でです、今の合楽で親先生が言っておる事をです、私共が理解し分からせてもろうて、それを行の上に現していくならば決して難しい事でもきつい事でもない、楽しゅう有り難うでけて、しかも間違いのない一歩、一歩、信心をしておれば一年一年有り難うなって行くことに間違いのない信心、信心をしておれば必ず位がつくものぞと仰る、はぁーこれが位と言うものかと言うようにです、給料が高うなって行くでしょう、皆の尊敬の年が、を集めて行く事ができるでしょう位がつくらから、ね。
昨日、の御理解の中に、ね、信心をさせて頂く者は木の切りかぶに腰をおろしても立つ時には例を言う心持になれよと仰る、ね、皆さん礼を言う心持が、その心持が心行なんです、ね、今合楽ではもうあらゆる角度から心行、心行、開けてもくれても心行、合楽理念の立脚、合楽理念を土台として、成そうと思えば子供でもなされるような事を今までおろそかにしておった事を実意丁寧神信心を持って行じおこのうていこうと言うのであります、ね。
昨日、私共は日田の綾部さんのところの共励会、いわゆる、大分支部の共励会、昨日はたくさんの人が集まって十二時頃まで共励をさせてもらった、行きがけに最近綾部さんの長女の方が国東のほうに縁についておられます、根からの商売人ですから、何か商売をしたいと言うてお願いをしておられましたけれども、どうしてもお許しを頂かない、今度なんか、コーヒー店を開きたい、かなであんコーヒーショップかなんか、まあ、全国あっちこっちにあるそうですね、いわゆる、チェーン店です、それを開かれる事にお届けがありましたら、早速お許しを頂いたら、まあなんと一月の間に土地がもう最高のところがてに入りね、それから家が建ち、許可がおり、一月後にはもう開店であった、開店をしたらもう開店の日からもう十日余りなりますが、もうしろくにじゅうしのトンをつか、三十四、五名かけられる椅子がいつも満席だち、もう本当に神様からお許しを頂いてからのこと、もう置いた物をとるようなおかげを頂いておると言うので私にいっぺんきてもらいたいという事であったけれども、なかなかわざわざと行きませんので、幸い年に一回の共励会に十二月の十四日にまりますから、ならおいでられる前にきざんていと言う大きなホテルがありますが、そこで御夕食の席が出来ておりました。
だから、そこに行くちょっと時間を早くして、その、かなであんコーヒーショップによらせてもらいました、実に、なるほど、私共がお茶を致しますから、そのお茶にはお茶の雰囲気がねやっぱり必要でありますように、やはりコーヒーなんかを召し上がる人達なんかはあー言う雰囲気でなからなければいけまい、一分一厘隙のない、それこそ、カナダから出張してきた店だと言うよう看板が出ておりましたがね、もう本当に見事な店がでけております、まあようもこれだけのことが一月ででけた事だと、丁度椛目の時のあの駐車場のように長い駐車場が横にあってね、前には十台ぐらいする、もうそこが駐車場が一杯引く、その自動車で、そしてそこはあーとアスファルトが引いてあってね、もう本当にあっという間にそう言う出来ましたんですけれども。
昨日あちらへ参りましたら、もうほんの先生今までここが一杯でしたけれどもね、今日は親先生がみえる時間が分かっておりますから表のほうに本日休業の札を下げようと言うて話しておるところへ、今まで一杯であったお客さんが、それこそ、なんか水か波が引くように出てしまわれたち、もう今、全部空なったところです、私共が五、六名でまいりまして、その後にまた秋永先生達がきましたから、まあ、七、八名の者でした、もう本当に私共はコーヒーをよばれて色んな説明、コーヒー一杯が三百五十円、それで立派な器に立派なコーヒーが出ましたけれども、さじがついとらんも、ほぉーこれはあんたスプーンを忘れとるばいち言うたら、それはスプーンなしで頂くコーヒーだそうです、なかなか、私その、分からないわけですね、それはなかなかおいしいコーヒーでした。
そして頂き終わって、そんならまたあちらの席をもうけてあるところがまっておるだろうから、はい行こうかと言い寄ったらぞろぞろ入ってくるんですよ、私が表へでてから、ずうっと駐車場から見て回りよる間にもう駐車場が一杯になるぐらいに入りました、そして、表へでてきてから、あちらの絹子さんと夫婦が表へでてまいりましてからね、もう本当に今日はおかげを頂きまして有り難うございましたというわけなんです、どう言うわけでしょう、私が言ったらお客さんが、金をとらるお客さんは全部逃げてしもうた、いや、逃げてしもうた出てしもうた、それでただのお客さんがぞろぞろと入ったつのがどこが有り難いかち、ね、ほんなこつ言うならば、もう先生が来るって、くんならこげんお客さんがぞろぞろ出てしまうなら、もうきてもらわにゃんがよかちうところである、ね、お客さんが、いうならば、出てしまう事も有り難い、ただで飲ませる事もまた有り難い、なぜでしょうか、ね、本当に親先生のおかげでこの店が出来ました、親先生のおかげでこの繁盛のおかげをいておりますと思うから、例えばお客さんがみんなでてしもうても有り難いのであり、ただで飲んでもろうても有り難いのでしょうもんね。
ですからね、なら皆さんが例えばお商売をなさっておられるに致しましても病気をして、しておられるに致しましても、様々なそこに問題があると致しましても本当に親先生のおかげでといえれる人ならばです、ねお客さんが満杯の時も有り難いなら、皆、帰ってしまって、今換算としておる時もまた有り難いと言う事にならなければ本当の有り難いと言うことではないことが分かります。
木の切りかぶに腰をおろしても立つ時には礼を言う心持とはそう言う心持じゃないでしょうか、それを合楽では心行だといっておるのです、心行がでけておらなければなかなか有り難いが出ません、さみしゅうなります、腹が立ちます、ね、不平不足が出てまいります、心行とは不平不足を言わんこと、暑い寒いを言わんこと、暑つかっても暑いと言わない事、お客さんは出てしまわれても有り難うございますと言う心がなからなければならないと言うのであります、それがただのお客さんでありましてもやはり有り難うございます言わなければならないのある、ね、それは、こう言う有り難い神様のおかげを頂いておる、こう言う有り難い親先生のお取次ぎの中に祈りの中に今日只今のその様相と言うものはその祈りの中にあるんだと分かるから、気の切りかぶに腰をおろしても立つ時には礼を言う心持が生まれてくる、そう言う信心を繰り返させて頂く限り、もう必ず年を取るほど位がついてまいります、年をとれば一年一年必ず有り難うなってまいります、そして、なるほど、これが位と言うものかと自分で分かるような信心を、そう言う手応えのある信心を、さぁーそれから先は分からんばのう、ど言ういう事が神様のご機感に叶うか、それが分かるごたるならあんた苦労はなかち言うのじゃなくて、合楽ではそこんところをはっきり明示している、そこを求めてくるなら必ず与えられる、言うならば信心を聞いておるのですから、皆さんがやはりその気にならなければならないという事でございます、そう言う、いわば有り難いの一念をもっていよいよ報徳祭、ご本部では霊祭になっております、ですから、斎場は全部白の記帳に変えられてね、言うならば、あれは天津祝詞やら大祓いじゃなくて、本当は祖先賛詞でからなきゃいかんだろうと思うです。
昨日も久富先生が今度ご本部参拝をしてからご本部はお鏡さんが白じゃった、だから内も白にしますかちいうて尋ねてみえましたから、いいや、ここはご大祭ですよって、ここは二代金光様、言うなら四神様のご大祭ですよ、三代金光様のご大祭ですよ、だから紅白にしなければいけないと、こう言うふうにまあ申しましたけれども、今晩の前夜祭をつかいさせて頂きながら、何かそう言う賑々しい感じがね、何とはなしにないような感じがしたんです、ね、結局合楽の信心を頂いておるもう絶対だ、間違いないと確信をもって伝えられておってもそれを本当の行じてない証拠だと言うふうにも思います、ね、本当に有り難い物が溢れるほどにない証拠だとも思われます、ね、ただ大祭にお参りをすればそれでよいと言うのではなくて、大祭までの準備御用と言うものが今日、言うなら、万事万端の上に用意おそおそ怠りなく出来ましたと言う神様への今日はご報告の、いわばお祭りでございます、ね、そう言うお祭りを皆さんがそう言うお祭りにあわれて、そして、明日の報徳祭を頂いて、今、いわゆる、金光太郎先生が言うておられる、信心をしなければ一生のそんだ、なるほどそれを分かったと一つ分かって、明日は帰って頂きたいと言うふうに思います。
                                どうぞ。